乳母たちの物語

　第百十六回、政木狐は十数年ぶりに再会した御曹司・河鯉孝嗣と犬江親兵衛に、自分の来歴について語る。すなわち彼女の正体は牝狐であり、夫子供とともに当時河鯉の居城であった忍岡城の簀子（すのこ）の下（縁の下のことか？）に住んでいたが、残忍な若党・掛田和奈三によって夫を食べられてしまう。

　さらに政木狐母子も危うく捕獲されそうになるところを、孝嗣の母が知って慈善の心から和奈三を叱って謹慎させ、逆に政木狐母子には毎日食事を与えるという多大な温情を示した。やがて和奈三は河鯉家から放逐され、彼を恨む政木狐は妖術を用いて和奈三を溺死に追い込むが、そのさいに和奈三とともに逐電しようとしていた孝嗣の乳母・政木も巻き添えをくって命を落とす。

　孝嗣から乳母を奪った形になった（逐電途中だったのだからどのみちいなくなってたわけだが）ことを気に病んだ政木狐は、孝嗣の母への恩返しの気持ちもこめて政木の姿に化けて幼い孝嗣に乳を与えるようになったのであった。

　上記のエピソードはやはり某家の乳母を努めた女性のことを思い起こさせる。そう、犬山道節の乳母だった音音である。犬山家に奉公にあがった音音はそこで若党の姥雪世四郎と密通し、やがて懐妊したことから二人の関係は公となり世四郎ともどもに獄に入れられてしまった。

　本当なら両者とも処刑となるところを、道節の母（当時はまだ懐妊中だった）阿是非の温情によって助命され、やがて双子を出産ののちは道節の乳母へと取り立てられる（世四郎は穏便に追放処分）。恩に感じた音音は、里子に出された実子のことはおいといて、とにかく道節を大切に育てる。

　この二つのエピソードに共通しているのは、かたや扇谷上杉家、かたや豊嶋家という大家の重臣の奥方に、子供ともども命を救われた女が、恩返しのため乳母として奥方の息子をわが子にもまして寵愛する（それぞれの理由で夫は不在）という展開である。こう書くと音音が獣レベルのようだが、双子は畜生腹とも言うし（音音の昔語りにも「無慙や〓（ふたご）にて」という個所がある）、夫の仇討ちのために和奈三を妖術で惑わして死なせた政木狐と、息子の仇討ちのために、船に火を放って仇を焼死させた音音の激しさには多分に似通った要素を感じる。

　音音と政木狐は直接に接点はないものの彼女たちが乳を与えた子供たち、道節と孝嗣には大いに接点がある。道節をはじめとする六犬士と川を隔てて向かいあう場面が孝嗣の初登場シーンだったのだから。のちに里見家に仕えるようになってからは孝嗣はもっぱら犬江親兵衛と組むことが多く、道節とのからみはあまり出てこないが、互いのすこぶるパワフルな乳母について語りあったりしていたかもしれない。しかし箙大刀自も含めて『八犬伝』に出てくる婆さんは強いな・・・。

　ところで、政木狐の実子である子狐は政木狐が和奈三と（人間の）政木を殺す少し前に独立したそうだが、思えばこの子狐って孝嗣の乳兄弟なのである。力二郎・尺八兄弟のように、孝嗣につきしたがってたりしたら、それはそれで面白かったかも。同じ理屈で八房にも狸の乳兄弟がいるわけである。妙椿狸も実子がなければ乳が出なかったはずなのだから。しかしそうすると、妙椿＝玉梓（「八房＝玉梓か？」参照）は牡狸と交わって狸を産んだということになる。復讐のためとはいえ狸に生まれ変わって狸の子を産む・・・気によって人にして犬の子を孕んだ伏姫よりある意味壮絶かもしれない。

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